木ノ内博道の雑読ノート

読んだ本の備忘録です。

『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』

竹内整一著、ちくま新書

「さようなら」という言葉が不思議だということは、以前、須賀敦子の『遠い朝の本たち』で知った。さようならはそうであるならば、ほどの意味である。「そうであるならばしかたがない」と言って別れる。海外で、こうした別れ方をするのは少ない。グッドバイのように神とともに、と言って別れるのである。

本書では、日本人の死生観に関連して「さようなら」を論じていく。

「自ら」はみずからと読む以外におのずから、とも読める。主体的な行為でなく受け身として認識する。昔、皇族の誰かが交通事故を起こしたという新聞記事を読んだことがある。皇族の誰かは本人のせいで事故を起こしたにもかかわらず、記事では尊敬語を使うから、まるで自分は悪くないのに交通事故に巻き込まれた、みたいな印象を受けた。

「今度結婚をすることになりました」「就職することになりました」など、自分のことなのに他人事のように言葉にする。われわれは無意識のうちに「自発」が「受け身」になり、「受け身」が「尊敬」であるような用法を自在にこなしている、と本書は言う。

おのずからとしての死、それが「そうであるならばしかたがない」という「さようなら」だというのである。